学歴 富山大学教育学部初等科

職歴 尾山神社結婚式場金渓閣

資格 古流生華指南

   小学校教諭一級免除

   中学校教諭2級免除

   GCSコーチ

 

   

金沢生まれの金沢育ち

昭和23年3月、金沢生まれ、二人姉妹の次女 B型。

幼い頃より、食べるのが趣味?丸い顔がトレードマーク。

 

天真爛漫、どちらかというとお転婆娘、

お友達は男の子が多く、

女子はあまりいなかったような記憶があります。

 

幼少期、教育熱心な両親のおかげで、

当時としては珍しい

3才からキリスト系幼稚園に

通園していました。

 

父は肺結核を患い滋賀県で療養生活を

送っていた事があると聞いています。

日本が敗戦を迎え、「ペニシリン」が日本に上陸、

結核の治療薬として使用され、

父は命拾いをしたそうです。

その話しを聞いた時、

「治療薬ですらない国が、戦争をおこしたのか」と

とても奇異な感じがしました。

 

娘の私の眼からみて夫婦仲が良いと

感じた事はありませんでした。

しかし、父が晩年、病院のベッドで

「みっちゃん、みっちゃん」と

亡くなった母の名前を呼びながら、

嬉しそうに話しかけてきた姿に、

無口で不器用な父の母への愛を感じ、

いろんな愛の形を知ると同時に

とっても暖かな思いに包まれました。

 

「もっと早くに気付いていれば」

と、それが悔やまれます。

 

好奇心の赴くままに行動した小・中時代

当時の日本の社会状況は男女の地位関係は

圧倒的に男性有利で、女性の人間としての権利が低く、

幼い子供なりに社会の不条理を

強く感じながら育ちました。

 

小学校時代は浅野川、卯辰山を

庭の様に走り回り、

中学校時代は読書にはまり

勉強もせずに乱読の毎日。

一番苦手なものは「勉強」。

学校では無口な女の子だったらしい。

帰宅後はお転婆の2重生活?

その頃、父が事業に失敗し、

生活は一転しました。

 

がり勉女子高校生の誕生

私はというと、勉強もせずに遊んでいた結果、

高校受験を失敗、私立女子高に

進学することになりました。

そのおかげで(?)、負けずぎらいの性格に火がつき。

高校時代は一転して「がり勉」生徒に変身。

頑張ればかならず成果のあがる勉強に

夢中になっていきました。

特に理数系が好きで女子校では

異端者的存在でした。

 

高3時代は、授業には出席せずに

学内図書館で独学にはげみ?

一部の先生からは強い応援を頂き、

一部の先生からは反感を受けました。

この時代、ぽっちゃり顔の私についた仇名が

おまんじゅう(まるちゃん

 

将来の夢は「キャリアウーマン」、

自分の力で生きる道を選択し、

自立した女性を目標にして大学受験。

高校時代から奨学金を頂き、大学はお金のかからない国立。

金沢大学もしくは富山大学と設定し受験勉強に励みました。

ところが、オッチョコチョイの性格が受験当日に炸裂、

第一志望の金沢大学は不合格、

第2志望の富山大学へ進学することになります。

一周遅れのトップランナー時代

当時の国立大学授業料は半年6000円。奨学金とバイト収入で生活。

制服のない大学では、女子大生は毎日洋服を変えて登校します。

お金もなく、もともとお洒落に興味のない私は流行にまったく無頓着。

ミニスカートが流行し、やがて丈長になり始めた時

についた素敵な仇名が

「一周遅れのトップランナー」

 

友人は皆「エー!」という

リアクションだったにも関わらず 

全く気にならないくらい毎日が充実していました。

一方、私の在学中に

仲の良かった姉が親の反対を押し切り

徳島へと嫁いでしまいました。

私が自分で選んだ道 「愛」

  結婚、出産、育児、そして介護

卒業の年、母が倒れ、看病のために帰郷。

糖尿病が原因の白内障の手術、

当時は1週間眼帯をつけたまま絶対安静が必要。

そのため付き添いが昼夜を問わず必要でした。

 姉は遠方に嫁に出てしまい、

親を置いて金沢を離れる事の出来ない私の想いを理解し、

金沢に来てくれた夫と結婚。

やがて娘二人を出産、育児、両親の介護。。

 

夫婦愛や親子の愛は、何気ない日常を共に歩み、

どちらかが辛い時、苦しい時には互いに助け合い、

励まし合って強くなっていきます。

キャリアウーマンを目指していた頃の自分の夢とは違い、

何回か家庭の状況にあわせて、

事務員、塾の先生、営業と仕事は変えてきましたが、

後悔した事は一度もありません。

また、家庭に入ってしまう事を考えた事も一度もありません。

 

どの仕事に対しても、誠実に一生懸命

取り組んできたおかげで、

いろんなことが身につきました。

 

この世の中すべてが信じられなくて真っ黒のトンネルに入った時

「この世の中で無駄な事は一つもない」

「どんなに苦しい事でもどんなに悲しい事でも

無駄な経験なんて一つもない」

「かならずその後の人生の肥やしとなる。」

「いくつになってもやり直せる」が私の持論です。

 

42歳の時、今までの私の人生で

一番苦しく傷ついた出来事がありました。

そんな時に母を失い、一時はどうしたらよいかわからず、

誰も信じる事が出来ず、誰とも会う事が出来ず、

仕事もやめ、一人で悩み苦しんでいた時に、

私を救ってくれたのが家族の存在でした。

 

苦しんでいる時には自分の一番大事なものですら

気がつかない事があります。

 

とことん悩んで「死」の一字にとりつかれ、

どうにもならなくなった頃に、

友人からかけられた一言で

ふと我にかえる事が出来ました。

「貴方にとって一番大事なものはなに?」

自分の苦しみだけに頭がいっぱいになり、

それまで支えてくれた夫や子供達が

何も言わずにじぃっと待っていて

くれている事を忘れていました。

何回も同じ事を言っている私に

「うん、うん」と頷き

時には同じ様に怒ってくれる家族。

私はこんな素晴らしい家族に

囲まれていると思った途端に、

いままで悩んでいた事は

一瞬にして経験の一つとなりました。

 

 新しい門出に選んだ仕事が、

新しい家族のスタートのお手伝いのお仕事。

「お二人の結婚の向こうにある幸せな家庭」にむけてのサポート。

夫婦のつながり、家族の絆の大切さを知った私には

このお仕事は正しく天から与えられた仕事と思っています。

 

仕事を探しにハローワークに出かけ

最初に眼に入ってきた求人票。

運命に導かれる様に面接に。

 「結婚してからの幸せ」の実現を目標に、

結婚式をサポートさせて頂く毎日。

その数はおおよそ1500組となり、

今もその記録は伸び続けています。

 

[ありのままにシンプルに生きたい」

2013年、結婚式場尾山神社金渓閣退職(64歳)

 

「これからの人生をどう生きたらよいか?」

「人のお役にたつ事が出来て喜んで頂ける事、

私にしか出来ない事、この年齢でしか出来ない事を、

体が動くぎりぎりまでお仕事しよう。

最後まで希望、夢、愛を抱き続けたいから。」

 

これからは人生のフリータイム。

日本で最初のシニア専門と特化した

婚礼プロデュース「結yui」設立。

これからご夫婦になる方だけでなく、

すでにご夫婦へ「バウリニューアル」のご提案。

これまでのエスカレーターのような人生で培ったすべてで、

これから「幸せになろうとしているすべての人」

にお役に立ちたいと考えています。

 

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